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西湘たちばなの郷
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1、[唐沢の清正公さん]
この加藤清正公の木像は、明治の初め頃に唐沢海岸へ流れつき安置されたものです。この清正公は、猛将にちなみ日露戦争当時から出征兵士の武運長久祈願所となっていました。また、勝負運の強いところからブリ漁の信仰対象として広まった時がありました。
2、[常念寺]
常念寺は、滝澤山法性院と号し、寛永16年(1639)に建立された浄土宗の寺院です。この寺院は、織田信長の家臣・滝川一益が前川に落ち清沢性と改名し、討死した家臣の冥福を祈って念仏三味に暮らしたところだと言われています。境内には阿弥陀如来の石像や滝沢家の五輪塔など目を奪う石像が多数置かれています。
▲常念寺の石像
3、[長泉寺]
長泉寺は、永正12年(1515)に休庵和尚によって開山された臨済宗の寺院です。本尊は釈迦如来です。この寺は、近代文学の先駆者である北村透谷の先祖の菩提寺です。透谷が自殺する前には本堂の脇に夫人の美那子さんと仮居しており、友人の藤村藤村らが訪れていたと言われています。
4、[近戸神社]
近月神社は、前川村鎮守であり、祭神は大山祇命です。本殿は寛保元年(1741)に再建されたと言われています。この社の近くには横穴古墳も発掘されています。また、社叢は市の天然記念物に指定されており、照葉樹林の自然林としては数少ないものの一つです。なお、神社への登り口には首をすくめて天を仰いでいる珍しい「狛犬」がいます。
▲近戸神社の社叢
5、[浅間神社]
浅間神社は、宝永4年(1707)富士山の噴火により火山岩1個が藤原台地に落下し、当地区民がこれを発見し現在の地に納めたと言われています。境内には、坊山から引水している井戸があり、昭和30年頃まで町屋の人々はこの水で生活していました。
6、[押切と六道地蔵]
押切は、江戸時代末期より秦野地方の農産物や前川浜の海産物、そして江戸の商品を船荷で扱う集散地で、昭和10年頃までは商家や昆布加工の店が立ち並び特色のある村でしたが、今ではすっかり変貌しています。海岸近くの共同墓地には、1本の塔身に6体が刻まれた六道地蔵があり、昔を偲ばせています。
7、[御散原]
現在の中村原公園のある場所は、昔「御散原」と呼ばれておりました。その語源は、社地あるいは社に属する地を「散所」と称し、御は敬語で、原は中村原の原を意味しております。また、現在の県道は江戸時代に開かれたもので、公園の脇には「大山道」の道標が置かれています。
▲大山道の道標
8、[羽根尾横穴古墳群]
橘地区には約160基の横穴古墳が発見されていますが、そのうち羽根尾字サイノカミの1基と、同字佃の4基、合わせて5基が史跡として指定されています。これらの古墳は、いずれも土壇、羨門(さいもん/入口)、羨道(通路)が消失し、玄室(遺体を安置する場所)が開口しています。サイノ神古墳は、羨門の方角を南にとり、天井部に人家の棟木に相当する形の彫り込みがあります。
▲羽根尾横穴古墳
9、[広済寺と柿の木]
広済寺は、万年山と号し、天正13年(1585)9月に建立された曹洞宗の寺院です。本尊は釈迦如来です。当寺には北条早雲公の古い位牌が安置されています。境内には、一面観音菩薩が座置され、山門前には柿の大樹があります。この柿の木は、樹齢が300年を越すと言われ、寛政8年(1796)の火災で樹幹が焼け焦げましたが、今なお柿の実を実らせています。小田原市の天然記念物に指定されています。
▲天然記念物の柿の木
10、[山西・道場の道祖神]
山西の道場を通る鎌倉街道の道端に道祖神が置かれています。この道祖神は、卵形をした自然石で表面に「地神社」と刻まれており、毎年1月14日には神棚にあったものを集めて近くの田圃で燃やす「せいと払い」と呼ばれる火祭りが行われています。
▲地神社を道祖神に
11、[白髪神社と奉射祭]
白髭神社は、下中村の総鎮守であり、祭神は猿山彦命です。神社縁起によれば、信行基が東国行脚の折に小竹山頂に地蔵堂を建立し、その後伊勢神宮の神官広瀬入道実応が、ここで白髪の夢を見て御神像を彫り社殿を造営し、元慶元年(877)9月9日に盛大な鎮座祭を行ったのが起源とされています。その後、現宮司の祖先が荒廃していた社殿を再興し、中村庄司平宗平や源頼朝、そして足利尊氏らの武将の崇敬を受け、総氏神として尊信されてきました。毎年1月7日の日の出とともに(現在では午前10時)行われる奉射祭は、五穀豊穣を祈る新年の古行事として広く知られており、古式を伝える神事として小田原市の無形民俗文化財にも指定されています。
▲奉射祭
12、[船津家の長屋門]
この長屋門は、文政12年(1828)4月に山西村越地の杉崎内匠政信によって建造されました。この門は、入母屋造り・茅葺きの長屋門で建造以後長い年月を経過していますが、よく原形を留めており小田原市の重要文化財に指定されています。なお、船津家には宝永4年(1707)富士山大噴火後の小船村の絵地図が残っており、当時の状況を示す貴重な資料となっています。
▲船津家の長屋門
13、[廣宣寺と三十番神]
廣宣寺は、海辺山と号し、至徳元年(1384)に創立された日蓮宗の寺院です。本尊は宗祖の定めた大曼茶羅(本師釈迦牟尼仏)です。当寺は国府津山の東麓にあって、箱根路と鎌倉街道を結ぶ往還の地に建てられており、旅人の行き倒れを救うお寺として親しまれていました。また、本堂裏手の山腹には本尊を守る三十番神の社もあります。
14、[普済寺]
普済寺は、金剛山と号し、寛永8年(1631)に万年山広済寺の僧、真安玄達を迎えて開山された曹洞宗の寺院です。本尊は地蔵菩薩像です。この菩薩は法衣垂下式の像で、中国の宋・光時代の絵画をもとに造立されたものと推定されており、小田原市では他に見られないものです。
▲普済寺開基早野家の碑
15、[明沢の馬頭観音群]
馬頭観音群の中央に、頭上に馬頭を戴いた観音像が安置されています。この馬頭観音は、観音菩薩が変化した姿でヒンズー教のピシュヌ神がその祖形とされ、農耕用・運搬用に使役した馬を供養する為に造立されたものと言われています。この石像の周りにはたくさんの馬頭観音が置かれています。
▲明沢の馬頭観音群
16、[久成寺]
久成寺は、常英山と号し、天正5年(1577)4月に創立された日蓮宗の寺院です。本尊は大曼荼羅です。本尊の隣りには、江戸時代中期に造られた厨子があり、大黒様が祭られています。
17、[中村庄司平宗平居館跡]
桓武平氏・平良文六代の孫宗平は、平安末期にこの中村郷を中心に広範囲な地域を領有し中村庄司と称され、源頼朝を助けて鎌倉開府に多大な貢献をしたことが記されています。この場所は足柄古道と鎌倉街道の合流地点にあたり、中村庄司が居館を構えたところと言われています。しかし、その確証はありませんが、一族の墓らしきものが北側の山裾にあり、中世豪族の居館跡を感じさせる風情があります。
18、[受教寺]
受教寺は、応永3年(1396)10月に創立された日蓮宗の寺院で本尊は曼荼羅です。この寺院には、中山法華経寺の高僧日親の作とされる日蓮上人の祖像が安置されています。日親(1407〜1488)は、「立正治国論」を著わして六代将軍足利義教の忌憚に触れ投獄され重い刑罰を受け、鍋かぶり上人と呼ばれました。
▲受教寺の日蓮上人祖像
19、[東際寺]
東際寺は、小竹山と号し、明徳2年(1391)に関東公方足利氏満によって建立された臨済宗建長寺派に属する古刹です。本堂には足利氏満の永安寺殿壁山全公大禅定門の位牌が安置されています。本堂正面には足利氏満の真筆による扁額が掲げられており、寺紋は足利家の二つ引絞が印されています。また、墓地の入口には寛和元年(985)に有名な「往生要集」を著わした恵心僧都の作と伝えられる「とりい観世音菩薩」が御堂の中に安置されています。
▲東際寺の扁額
20、[相模人形芝居下中座初代座長の墓]
国指定重要無形民俗文化財となっている相模人形芝居下中座は、江戸中期の享保年間(1715−35)に元禄文化の影響を受けた人心の引き締めと青年層への健全娯楽を与える為に小竹村に導入され現在まで引き継がれています。初代座長は、元水戸藩士であった桑島熊雄が明治になって西川伊三郎一座に弟子入りし、艱難辛苦の末座長となりこの小竹を中心に興行活動を展開しました。西川伊三郎を襲名した初代座長は、明治41年に小竹に移住し、昭和7年に74歳で没しその墓は東際寺にあります。
21、[桜の馬場と黄泉塚]
桜の馬場は、沼代の鎮守王子神社における例大祭御旅所御着座の折、御神前に奉納された競馬の馬場で、直線コースを走りました。かっては、この地の豪族中村氏が武道奨励の意もあって、白髪神社には御散原で相撲を、五所八幡宮と王子神社には競馬を奉納したのが始まりと言われています。また、この古道の脇に昔は、土を盛り上げた「土饅頭」が沢山ありました。永禄4年(1561)上杉謙信の小田原攻めの際に、北条氏康軍との激戦が六本松峠であり、その時の戦死者を埋葬したものと伝えられています。
▲桜の馬場
22、[王子神社と杉の木]
王子神社は、旧沼代村の鎮守社として宝徳元年(1449)に勧請されたと言われ、古くは若一王子社と称し、祭神は伊奘冊尊が祭られています。境内には、かって2本あった杉の内1本のみが残っています。この杉の樹高は約30m、樹齢は200年以上を経過しているものと推察され、小田原市の天然記念物に指定されています。毎年4月に行われる例大祭には、かっては桜の馬場で競馬の奉納が行われていました。
▲王子神社の杉の木
23、[千代の松跡(沼城跡)]
千代の松跡は、王子神社から六本松跡へ向かう鎌倉古道の道筋にあります。ここからは、かっての中村郷と相模湾が一望でき、中世には官道の要衝地であったことが伺えます。千代の松が枯れてしまった後、現在では桜が植えられています。
24、[六本松跡]
山彦山の峰通しを六本松峠と呼んでいます。六本の松があったので、この名がついたといわれます。昭和までは、そのうちの一本が残っており、その幹囲はl丈5尺3寸(約4m60cm)ほどもありました。この峠で大山道(中村通)と鎌倉街道が交差し、東西への眺望が極めて良く松尾芭蕉の句碑や尾崎孤山人の碑があります。
25、[撃墜王上原中佐戦死の地]
撃墜王と言われた上原重雄陸軍中佐(当時は大尉)は、昭和20年2月16日に横須賀市に猛爆撃をかけて南下してきた米艦載機グラマンF6の大編隊に対して、唯一機小竹上空にて殴り込みをかけ壮烈な戦死を遂げました。その墜落地である沼代の丘陵地には搭乗機「疾風」のプロペラ1枚が相模湾を睨みながら日本の国土を一人で守るかのように墓地の記念碑として立っています。
26、[茶屋の薬師堂(二宮町)]
国道1号線川勾神社入口に茶屋の薬師堂があります。この薬師堂は川勾神社の本地仏でした。この堂の中には「薬師瑠璃光如来」の巨体が安置されています。この如来像は江戸時代の作といわれ、寅年に御開帳されます。また、この如来像は、昭和49年に二宮町の重要文化財に指定されています。
27、[川勾神社(二宮町)]
川勾神社は、二宮神社ともいい、二宮町の氏神で相模の国一の宮寒川神社に並ぶ旧社です。創建は、第十一代垂仁天皇の勅命を奉じて創られたと伝えられます。北条氏の時代には、小田原城の鬼門除守護神として保護されてきました。毎年10月10日に例大祭が行われます。
28、[五所宮八幡神社(中井町)]
五所宮八幡神社は、平安時代後期の保元2年(1157)に比叡山の僧・義円によって創建され、源頼朝の全国祈願所61社の一つに数えられる由緒正しい神社です。中村・上中村地区の総鎮守としていまも変わらず人々の生活を見守っています。また、毎年4月29日に行われている例大祭では、勇壮で華麗な山車の競演とともに古式ゆかしい「鷺の舞」が御旅所の舟舞台で奉納されます。
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